甘いマスクにポニーテール、そして鮮やかなテクニックで観客を魅了する、稀代の天才ファンタジスタと言えばご存じロベルト・バッジョです。
イタリアセリエAの黄金期を支えたロベルト・バッジョは、アイデア満載のプレイをするのが魅力的で、
誰もが予想しないテクニックを披露し続けた結果、いつしか人はバッジョのことを「ファンタジスタ」と呼ぶようになりました。
才能と努力が見事に融合したバッジョですが、彼の人生は波乱に満ちており、挫折や苦難を乗り越えたバッジョからは様々な名言が生まれました。
バッジョの名言はサッカーだけにとどまらず、スポーツ界やビジネス界にも深く浸透しています。
バッジョの口から出た美しい名言の数々は、どんな内容なのか、バッジョの生い立ちやエピソードとともに詳しく紹介していきます。
ロベルト・バッジョの生い立ち
ロベルト・バッジョは、1967年にイタリアのカルドーニョで誕生します。
幼い事からサッカー漬けの毎日を過ごしていたバッジョは、若干15歳の若さで当時3部相当のセリエC1であるヴィチェンツァでプロデビューします。
セリエC1での活躍が実って、1985年にはセリエAのフィオレンティーナへ移籍、そしてユヴェントスや名門クラブであるACミランで活躍した後、
ボローニャを経てインテル・ミラノへ移籍、2000年からはブレシアに移籍して2004年に現役生活に別れを告げました。
イタリア代表では、1988年にデビューをし、ワールドカップにも3大会連続で出場しています。
イタリアきってのイケメンともてはやされ、バッジョがボールを持つと、女性の観客から黄色い声援が飛んでいました。
ロベルト・バッジョの戦績
ロベルト・バッジョは、キャリアの全てをイタリアで過ごした選手として有名です。
イタリアサッカー界で、バッジョはどのような成績を残していたのか、ぜひ見ていきましょう。
クラブ | 在籍年度 | 出場数 | 得点 |
ヴィチェンツァ | 1982年~1985年 | 36 | 13 |
ACFフィオレンティーナ | 1985年~1990年 | 94 | 39 |
ユヴェントス | 1990年~1995年 | 141 | 78 |
ACミラン | 1995年~1997年 | 51 | 12 |
ボローニャFC | 1997年~1998年 | 30 | 22 |
インテル・ミラノ | 1998年~2000年 | 41 | 9 |
ブレシア | 2000年~2004年 | 95 | 45 |
セリエAでは205ゴールを決めており、イタリア代表では、56試合に出場し、27ゴールをあげています。
1993年度のFIFA年間最優秀選手にも選出されており、守備が世界一厳しいイタリアセリエAでどれほどの活躍をしてきたのか、容易に想像ができます。
平和を愛するファンタジスタ
ロベルト・バッジョは、選手時代から平和への維持活動に積極的に参加していました。
現役引退後は、世界の貧困や飢餓に苦しむ人々のために慈善活動を行い、寄付も積極的に行っています。
バッジョの平和への思いと活動は世界から賞賛され、2010年にはノーベル平和賞を決める事務局から平和サミット賞を授与されています。
ロベルト・バッジョの名言
ロベルト・バッジョから放たれるボールは、優しさと豪快さに満ち溢れ、トリッキーかつアイデア溢れるプレイを観た人は、バッジョの虜になっていきます。
そんなバッジョですが、彼の人生は決して順風満帆だったわけではありません。
挫折や苦難の連続を乗り越えたバッジョの言葉には一言一句思いが込められ、多くの名言を生み出すことになりました。
天才ファンタジスタロベルト・バッジョの名言とはどんなものがあるのか、代表的なバッジョの名言を解説していきます。
PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ
1994年アメリカワールドカップでブラジルに敗戦した後に生まれた名言です。
1994年アメリカワールドカップイタリア代表に選出され、10番を背負うことになったバッジョですが、
怪我やコンディション不良により、中々思うような結果が出せませんでした。
しかし、味方のサポートや値千金のゴールを決めて見事に決勝まで進みます。
バッジョ率いるイタリア代表の決勝での対戦相手は、優勝予想国大本命であったブラジル代表です。
満身創痍だったバッジョは獅子奮迅の活躍を見せますが、ブラジルの壁は厚く、ついにはワールドカップ史上初のPK戦にまでもつれ込みます。
そして、5人目のキッカーに選ばれたバッジョですが、2対3でブラジルがリードしていたため、外せば負けるプレッシャーのかかる場面でPKを蹴ります。
そして、バッジョが放ったシュートはゴール左上を超えてしまい、ブラジルの優勝が決まってしまいました。
ひどく落ち込んだバッジョですが、試合後のインタビューで語った名言が「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ」です。
PKは、全ての視線がキッカーに集中し、孤独とプレッシャーが想像以上襲い掛かります。
そのためPKを嫌がる選手も多いのですが、怪我で満身創痍だったバッジョが勇気を振り絞ってPKを蹴るその姿にチームメイトや観客は感動を覚えました。
今を戦えない者に、次や未来を語る資格はない
才能あふれるファンタジスタとして有名なバッジョですが、実は練習の虫と言われるくらいの努力家です。
現在の練習で未来の試合を左右する、だからこそ現在を頑張るバッジョから生まれた名言です。
辛い時や悲しい時は、つい過去を振り返りがちです。時には現実逃避して未来を夢見ることもあるでしょう。
過去があるから現在がある、現在を頑張るから明日という未来がある、暗闇に迷った時に背中を押してくれるバッジョの名言です。
「今を戦えない者に、次や未来を語る資格はない」というバッジョの名言は、サッカーだけではなく、スポーツ界全体の名言として知られ、
書籍やインターネットだけではなく、ビジネスでも影響のある名言として今もなお語り継がれています。
思いついたプレーの中で最も難しい選択をする
サッカーでは、ボールを持った際に多くの選択肢が浮かびます。
パス一つとっても、どこに出すのかどうやって出すのか、様々な選択を一瞬で判断しなくてはなりません。
ほとんどの選手は、安全でリスクが少ない選択をしますが、バッジョは、リスクの高い選択をあえてしていたことで有名です。
一つ間違えば、失点に直結してしまうプレッシャーの中でも果敢に挑戦し続けるバッジョから生まれた名言です。
サッカーだけではなく、ビジネスや日常生活においても、安全な方法を選択しがちですが、時には高い難題に挑戦してみましょう。
難題と言う壁が高ければ高いほど、超えられた達成感は何事にもかえられないものになります。
ロベルト・バッジョのエピソード
天才ファンタジスタロベルト・バッジョからは様々な名言が生まれましたが、バッジョのサッカー人生は、怪我と苦難の戦いに満ち溢れたものでした。
そんなバッジョには、多くのエピソードがあり、エピソードから生まれた名言もあります。
バッジョがサッカー人生において、どんなエピソードに遭遇したのか、詳しく紹介します。
監督に嫌われていた
バッジョは、高いサッカーセンスとずば抜けたアイデアで、イタリア国中から絶賛されていました。
バッジョを試合に出さないと非難を浴びてしまう監督は、プレッシャーとバッシングに悩む日々を送らなければなりません。
監督からの辛い待遇に耐えてきたバッジョですが、インテル・ミラノ在籍時に当時の監督だったマルチェッロ・リッピ氏から、
チームで足を引っ張っている選手が誰なのか報告しろと言われます。
承諾すると仲間を売る行為にもなるため断ったバッジョは、
リッピ氏から冷遇を受け、練習中に嫌がらせ、挙句の果てには監督の許可なしでは食事もとれないという仕打ちを受けます。
しかし、プレイでチームメイトや観客を味方にしたバッジョは見事リッピ氏に勝利します。
この時に飛び出した名言が、「監督は私を亡き者にしたかった。だが不可能だった」です。
世界のファンタジスタから悲劇の主人公へ
1994年アメリカワールドカップは、ロベルト・バッジョが注目のスター選手として紹介され、バッジョの大会として目されていました。
しかし、怪我で思うようなプレイができず、決勝戦ではPKを外してしまいます。天才ファンタジスタともてはやされたバッジョが、
一転して悲劇の主人公に変わった瞬間でもありました。
PKを外した瞬間のバッジョはうなだれて、言葉も出ないほど放心してしまいます。
PKを外した瞬間に撮影された写真は、世界一美しい写真と評され、ワールドカップ特集では必ずと言って良いほど、
悲劇の主人公になったバッジョの写真が紹介されています。
まとめ
悲運と孤独、しかしサッカーボールがあれば誰もがくぎ付けになる、それがロベルト・バッジョです。
現代サッカーでは見られなくなったバッジョの巧みな個人技は、現在でもアーカイブやインターネットで多くの人が魅了されています。
サッカーを愛し、平和を愛するロベルト・バッジョ。彼のプレイを振り返りながら名言を思い出し、彼の名言で背中を思いきり押されてみましょう。
くじけそうな時やつらい時は、きっとバッジョの名言が味方になってくれます。