ユース年代に日の丸を背負い世界と戦った選手、高校サッカー全国選手権大会の得点王、優秀選手賞を獲得したプレーヤー。
将来を期待されプロへの道を歩んだものの、怪我やプロの厳しさに伸び悩みかつての栄光とは裏腹に、
人々の注目から消えていった選手たちがいます。
この記事ではそんな、消えていった天才プレイヤーたちを紹介します。
消えていった5人の天才サッカー選手たち
※画像はイメージです。
中田英寿以上と評された男「財前宣之」
最初に紹介するのは、中田英寿、宮本恒泰、松田直樹、戸田和幸といった、
トルシエ時代の日本代表選手が当時、誰一人として敵わなかった天才です。
その男は北海道室蘭市出身のミットフィルダー、財前宣之(ざいぜんのぶゆき)といいます。
1993年U-17世界選手権では、背番号「10」を背負い、リーグ戦3試合すべてでマンオブザマッチに選出。
代表内では彼に認められるか否かで、代表での立ち位置が決まるといわれるほどだったといいます。
当時のU-17では、「運動量なら中田英寿、パスセンスなら財前宣之」と言われる程でした。
しかしその後は、度重なる膝の怪我により、思うような活躍は出来ず、フル代表に呼ばれることもありませんでした。
怪我さえなければ、間違いなく日本サッカーの歴史は変わっていたことでしょう。
生年月日 | 1996年10月19日 |
身長/体重 | 170cm/66kg |
代表経験 | U-17日本代表 |
所属クラブ | 1995-1998年 ヴェルディ川崎
1996年 ログロニェス(スペイン) 1999年 リエカ(クロアチア) 1999-2005年 ベガルタ仙台 2006-2009年 モンテディオ山形 2010 ムアントン・ユナイテッド(タイ) 2011年 BECテロ・サーサナ(タイ) |
中村俊輔が唯一認めた男「富田学」
次に紹介するのは、横浜Fマリノスジュニアユース、ユース、トップチームとエリート街道を進んでいたものの、
わずか一年でプロ生活に終止符を打った幻の天才を紹介します。
彼の名前は富田学(とみたまなぶ)、ポジションはミッドフィルダーです。
中学時代は中村俊輔とともに横浜Fマリノスのジュニアユースに所属し、
ドリブル、瞬発力に秀でたオールマイティーな選手として活躍していました。
当時の彼のことを中村俊輔は「怪物」と思っていたそうです。
高校ではユースに上がれず桐光学園に行った中村俊輔、ユースに上がった富田学と別々の進路を辿ります。
高校卒業後は中村、富田共に横浜Fマリノスに入団します。
しかし、1年目で富田はマリノスを自主退団しています。
その後は慶應大学に入学し、そこでサッカーをプレーしていたそうです。
現在は大手企業で働いているようです。
生年月日 | 1978年6月15日 |
身長/体重 | 174cm/65kg |
代表経験 | なし |
所属クラブ | 1997年 横浜Fマリノス |
「千葉のスーパースター」「史上最高のストライカー」と呼ばれた男「森崎嘉之」
次に紹介するのが、歴代最高のストライカーと呼び声の高い天才です。
名前は森崎嘉之(もりさきよしゆき)。
高校サッカー名門校、市立船橋高校のフォワードとして、
1994年全国高校サッカー選手権大会では決勝戦でハットトリックを達成し、チームを優勝に導いています。
自身も8得点と大会得点王と大活躍し、卒業後はオファーがあったジェフユナイテッド市原に入団しています。
しかし、プロ入り後は出場機会に恵まれず、2年でジェフユナイテッドから戦力外通告を受けます。
のちに「酒、女性関係、夜遊びいろいろあったし、天狗になっていた」と語っています。
現在は指導者として、プロサッカー選手を夢見る若者にサッカーを教えているそうです。
生年月日 | 1976年4月20日 |
身長/体重 | 180cm/75kg |
代表経験 | なし |
所属クラブ | 1997年 ジェフユナイテッド市原
1997年 水戸ホーリーホック 1997-1999年 横河電機 |
”和製ロナウド”と呼ばれた男「矢野隼人」
当時怪物ストライカーとしてゴールを量産していたブラジルのロナウドという選手がいました。
その選手に喩えられ、「和製ロナウド」として日本サッカーを騒がせたストライカーを紹介します。
彼の名前は矢野隼人(やのはやと)といいます。
帝京高校の超高校級ストライカーとして、注目を集めていました。
坊主頭に鋭い眉毛、爆発的な得点センスと常人離れしたフィジカルを武器にゴールを量産する姿は、
まさに和製ロナウドの名にふさわしい選手でした。
1998年全国高校サッカー選手権大会では帝京高校の攻撃を牽引し、準優勝に輝いています。
また高校3年生には強化指定選手としてヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)に加わり、現役高校生ながらJリーグデビューを果たしています。
しかし翌年、正式に入団したものの、その後は出場機会に恵まれず、Jリーグ通算11試合に出場し、2002年に現役引退しています。
現在はS級ライセンスの指導者として、自身が叶えきれなかった夢を若者に託しているそうです。
生年月日 | 1980年10月29日 |
身長/体重 | 182cm/78kg |
代表経験 | なし |
所属クラブ | 1999-2002年 東京ヴェルディ(川崎ヴェルディ)
2002年 ヴァンフォーレ甲府 2007-2008年 FC刈谷 |
高校サッカー最大の歓声を集めた男「羽中田晃」
最後にご紹介するのは、プロの世界に足を踏み入れることはなかったものの、日本中を虜にしたファンタジスタです。
羽中田晃(はちゅうだあきら)、ポジションはミットフィルダー。
10歳からサッカーを始め、小学校時代から全国レベルで活躍、中学3年生でU-19代表合宿に呼ばれるなど、普通ではない活躍ぶりを見せていました。
高校では韮崎高校に進学、1年生から中心選手としてチームを引っ張っていたものの、
夏のインターハイで貧血を患い、選手権では足首の怪我を抱えていました。
2年時には股関節の剥離骨折に悩まされます。
3年時には急性腎炎を患うなど、とにかく怪我や病気に悩まされていました。
それでも痛み止めを打ってのプレーや辛い闘病生活を乗り越えるなど、1年から3年まですべての選手権に出場しました。
またそういったコンデションにもかかわらず、天才的なプレーを随所に見せていました。
決勝戦では彼のプレーに6万人の観客が国立を揺らしたと言われています。
そんな羽中田は卒業後にヨーロッパでプロを目指すために、大学推薦、クラブからのオファーをすべて断り、
大学進学のため浪人生活を送っていました。
しかし、国立を揺らした8ヶ月後、バイクの単身事故により下半身不随になり、その夢は叶いませんでした。
その後はカマタマーレ讃岐、奈良クラブなどで監督をし、現在はスカパー!でヨーロッパサッカー中継の解説として活動しています。
生年月日 | 1964年7月19日 |
身長/体重 | 167cm/56kg |
代表経験 | なし |
所属クラブ | なし |
まとめ
現在日本のJリーグには、J1,J2,J3,合わせて57のプロクラブが存在します。
その下にはJFL、地域リーグ、県リーグと続き、無数のセミプロ、アマチュアクラブが存在しています。
近年では、日本のナンバーワンクラブを決める「天皇杯」で、アマチュアクラブがJ1クラブを破ったなんてこともよくあります。
つまりそれだけ、プロリーグとアマチュアリーグの力の差は年々縮まっている傾向にあります。
上と下とのレベルの差がそこまで大きくない現在、たとえJ1リーグで出場機会がなくても、J2、J3といった受け皿があることによって、
一度チームから必要とされなくても、他のチームで才能を開花させることも多くあります。
また、多くの先人が日本を渡ったことで、海外からの日本人選手の評価が高まったことで、海外移籍という選択肢も増えました。
一方でJリーグ発足してまもない頃は、一度チームから必要とされなくなると、そこからの巻き返しが難しい時代でした。
そのため、若くして挫折した選手は行き場を失い、引退という選択をせざるを得ない状況になっていました。
そうした背景が、彼らのような消えた天才を生んでしまったのだと思います。
消えた天才と呼ばれる人々は、大きな苦悩や挫折を背負いながらも第二の人生を歩み続けています。