「空飛ぶオランダ人」と呼ばれたサッカー選手、ヨハン・クライフを知っていますか?
美しく勝つことに誰よりも情熱を注ぎ、没してもなおその美学と哲学が、世界中の指導者に影響を与えるサッカー界のレジェンドです。
今回の記事では、クライフの眩いばかりの功績と、珠玉の名言の数々をご紹介します。
ヨハン・クライフのプロフィール
偉大な選手
オランダ出身のヘンドリック・ヨハネス・クライフ(Hendrik Johannes Cruijff,1947年4月25日-2016年3月24日)は、
プラティニ、ジーコ、マラドーナ、ジダンなどと並び称される偉大なプレーヤーです。
プレースタイル
フォワードやミッドフィルダーとして、緩急あるドリブルや正確なパスを駆使する技巧派。
戦況を見極める洞察力と、チームをまとめ上げるキャプテンシーにも秀でていました。
クライフの名言1
「ボールを取られるのは、戦術的な洞察が足りないからだ」
屈強なディフェンダーの猛烈なタックルを、軽やかにジャンプしてかわすプレーを得意とし、その様子から「空飛ぶオランダ人」の異名を与えられます。
クライフの名言2
「ボールを持てば私が主役。決定するのは私で、創造するのも私だ」
ときに傲慢とみられる発言も少なくありません。しかし、常に自信に満ち溢れ、カリスマ的な人気を誇った選手でした。
生い立ち
アヤックスのアイドル
アムステルダム東部にある労働者の街べトンドルプで、青果店の次男として生を受けたクライフ。
家計は苦しく生活は困窮していましたが、2歳上の兄や友人たちとのストリートサッカーが、貧しさを忘れさせてくれます。
実家のすぐ近くにアヤックスのスタジアムがあり、子供たちにとっては格好の遊び場。
クライフは、当時の選手やスタッフに随分と可愛がられていました。
野球との二刀流
10歳になると、アヤックスの下部組織に入団します。瘦せっぽちで体格には恵まれませんでしたが、テクニックで他の子供たちを圧倒します。
じつは、駐屯していたアメリカ軍の影響で、当時のアヤックスには野球チームが併設されていました。
運動神経が抜群のクライフは、サッカーと掛け持ちで野球もプレー。年代別のオランダ代表にも選出されています。ポジションはキャッチャーでした。
クラブでの躍動
アヤックス時代
クライフの名言3
「シュートを打たなければ、得点はできない」
16歳でアヤックスのトップチームに昇格したクライフ。
名将リヌス・ミケルスとの出会いで、その才能が開花します。国内リーグでは、3連覇を含む優勝6回を記録。
個人としても2度の得点王に輝きました。
バルセロナ時代
オランダリーグでの華々しい活躍をひっさげ、1973年の夏にはスペインのFCバルセロナに移籍します。
レアル・マドリードとのライバル対決が、サッカーの試合以上に意味を持つこの地でも、クライフは中心選手としてプレーしました。
クライフの名言4
「美しくなければサッカーではない。攻撃的な戦術で、選手の技術が高く、3~4点を取り、見ていて楽しい試合こそ美しい」
1974年2月には、レアル・マドリードを敵地で5-0と粉砕。勢いにのったFCバルセロナはその年に14シーズンぶりのリーグ優勝を果たします。
クライフ自身はオランダ代表での活躍もあり、3度目の欧州最優秀選手賞(バロンドール)を受賞しました。
オランダ代表としての活躍
1974年FIFAワールドカップ
オランダ代表は来るべきワールドカップ西ドイツ大会に向け、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを、大会直前で代表監督に抜擢します。
ミケルスはかつて率いていたアヤックスのメンバーを中心に据え、自らが掲げる「全員攻撃・全員守備」の戦術を浸透させます。
そして、ピッチ上の監督としてメンバーに指示を出し、チームを統率したのがクライフでした。
選手全員が目まぐるしくポジションを変え、怒涛のように相手ゴールに迫る「トータルフットボール」に世界が驚き、オランダは快進撃を続けます。
残念ながら決勝では、手堅い戦術で戦う西ドイツに1対2で敗れました。
しかし、ユニフォームの色から「時計じかけのオレンジ」と称されたオランダの鮮烈な印象は、後世まで語り継がれることになります。
クライフの名言5
「決勝で敗れた後、私は茫然自失となった。しかし数年後に人々の記憶に蘇るのは、勝利した西ドイツではなく、敗れた我々のサッカーだ」
代表を引退
次のアルゼンチン大会出場に向けヨーロッパ予選を戦っていたクライフは、1977年10月のベルギー戦を最後に、代表からの引退を発表。
その理由として「長期間の合宿で、家族との時間が犠牲になるため」「軍事政権下で政情が不安定な、アルゼンチンへの渡航を避けるため」など、
様々な憶測が飛びかいます。
しかし真相は、現在も明らかになっていません。
名選手から名監督へ
監督としての成功
選手として素晴らしいキャリアを築いたクライフですが、監督としても類まれなパーソナリティを発揮します。
引退から1年後に就任したアヤックスでは、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト、デニス・ベルカンプら、
後のオランダ代表で主軸となる選手たちに、ボールコントロールの大切さを叩き込みました。
クライフの名言6
「ボールコントロールが全て。コントロールできない選手は、ボールを追いかけて走ることになる。それはサッカーじゃない。別のスポーツだ」
身長176㎝で華奢だったクライフがチームの王様でいられたのは、完璧なボールコントロールの技術があったからです。
ドリームチームを率いて
1988年の5月にFCバルセロナの監督として、ふたたびスペインの地に降り立ったクライフ。
彼の「サッカー哲学」と「攻撃的精神」を、ピッチで表現できる優秀な選手を次々に獲得します。
ブルガリア代表ストイチコフ、デンマーク代表ラウドルップ、ブラジル代表ロマーリオ、オランダ代表クーマンら、
各国の代表クラスをずらり並べる豪華な陣容を整えました。
きら星のようなタレント集団を、持ち前のカリスマ性で統率したクライフは、1990~94年にリーグ4連覇を達成。
当時のバルセロナはあまりの強さから、オリンピックで金メダルを獲得したバスケットボールアメリカ代表になぞられ、
「ドリームチーム」と呼ばれていました。
クライフの名言7
「サッカーは頭でプレーするスポーツ。走り回る必要はない。ただし、しかるべき瞬間に正しい場所にいなくてはならない」
クライフが思い描く理想は、人ではなくボールが動き続けるサッカー。「ボールは汗をかかない」が信条でした。
夢の終焉
バルセロナでの監督業を最後に、第一線から退いたあとは、子供のスポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、
スポーツマネジメントの専門職を育成するヨハン・クライフ大学を設立。後進の育成に力を注ぎます。
クライフの名言8
「美しく敗れることは恥ではない。無様に勝つことが恥なんだ」
2015年10月に、バルセロナの病院にて肺がんが発覚。じつは若い頃から、ヘビースモーカーとして有名でした。
短い闘病生活を経て、翌年の3月には帰らぬ人となります。68歳でした。
まとめ
ヨハン・クライフの言葉には「サッカーにおける美しさ」を、考えさせられる重みがあります。
スポーツは、勝利だけが全てではありません。主体的に誇り高くプレーする姿勢こそ、観衆の胸を打ち、その美しさに心が動くのです。
クライフが亡くなった後も、彼を尊敬する多くの指導者たちが、美しく攻撃的なサッカーを世界中で展開。数多く残された名言とともに、
クライフの魂は今も脈々と受け継がれています。