サッカー日本代表歴代監督を紹介します!黎明期からW杯出場まで!

日本サッカー強化のため、1993年に華々しく開幕した日本プロサッカーリーグ通称「Jリーグ」。

あれから多くの試合と経験を重ね、日本サッカーは悲願のワールドカップ出場をはじめ、着実に世界で戦える力をつけてきました。

しかしここに至るまでには幾人もの先人たちの汗と涙と努力の歴史がありました。

そこで今回は、サッカー日本代表歴代監督スポットをあて、戦績、功績など詳しく紹介していきます。

日本サッカーの歴史

歴代監督を紹介する前に、まずは簡単に日本サッカーの歴史にふれておきます。

日本でのサッカーの始まり

日本にサッカーが伝わったのは、1873年といわれています。その後1929年に国際サッカー連盟(FIFA)に加盟。

それ以降少しづつ国際試合を重ね、1965年日本サッカーリーグ(JSL)がスタートします。

協会名も「日本蹴球協会」から「日本サッカー協会」と変更し、いよいよ本格的強化へと踏み出します。

プロリーグへの道のり

日本チームは1954年に初めてワールドカップアジア予選に出場しました。しかし韓国に敗れ出場を逃します。

この当時日本はワールドカップより、オリンピックに重点を置き、地元開催の東京オリンピック目指し強化をすすめているところでした。

その努力の甲斐あって、1964年の東京オリンピックでベスト8、1968年のメキシコオリンピックでは銅メダルの好成績をおさめました。

しかしそれ以降国際大会で結果が出ず、関係者から世界に追いつくためにもプロ化を望む声が大きくなり、プロ化へ向けたプロジェクトを立ち上げました。

紆余曲折を経て、念願のプロリーグ「Jリーグ」が誕生し、その後悲願のワールドカップ出場を成し遂げました。

サッカー日本代表歴代監督

日本サッカーの黎明期となるプロ化以前と、Jリーグが誕生したプロ化以後にわけて、歴代監督を紹介します。

プロ化以前

氏名 赴任期間 主な出場大会 成績
竹腰茂丸 1951年~1956年 W杯スイス大会アジア予選 予選敗退
高橋英辰 1960年~1962年 W杯チリ大会アジア予選 予選敗退
長沼健 1962年~1969年

1972年~1976年

W杯メキシコ大会アジア予選

W杯西ドイツ大会アジア予選

1次予選敗退

1次予選敗退

岡野俊一郎 1970年~1971年
二宮寛 1976年~1978年 W杯アルゼンチン大会アジア予選 1次予選敗退
下村幸男 1979年~1980年
渡辺正 1980年
川淵三郎 1980年~1981年 W杯スペイン大会アジア予選 1次予選敗退
森孝慈 1981年~1985年 W杯メキシコ大会アジア予選 最終予選敗退
石井義信 1986年~1987年
横山謙三 1988年~1991年 W杯イタリア大会アジア予選

アジアカップカタール大会

1次予選敗退

グループリーグ敗退

ハンス・オフト 1992年~1994年 W杯アメリカ大会アジア予選

アジアカップ日本大会

最終予選敗退

優勝

プロ化以後

氏名 赴任期間 主な出場大会 成績
パウロ・ロベルト・ファルカン 1994年 広島アジア大会 ベスト8
加茂周 1994年~1997年 W杯フランス大会アジア予選

アジアカップUAE大会

大会中監督解任

ベスト8

岡田武史 1997年~1998年 W杯フランス大会 グループリーグ敗退
フィリップ・トルシエ 1998年~2002年 W杯日韓大会

アジアカップレバノン大会

ベスト16

優勝

ジーコ 2002年~2006年 W杯ドイツ大会

アジアカップ中国大会

グループリーグ敗退

優勝

イビチャ・オシム 2006年~2007年 アジアカップ4ヶ国共催大会 4位
岡田武史 2007年~2010年 W杯南アフリカ大会 ベスト16
アルベルト・ザッケローニ 2010年~2014年 W杯ブラジル大会 グループリーグ敗退
ハビエル・アギーレ 2014年~2015年 アジアカップオーストラリア大会 ベスト8
バヒド・ハリルホジッチ 2015年~2018年 W杯ロシア大会アジア予選 本戦出場
西野朗 2018年 W杯ロシア大会 ベスト16

ドーハの悲劇からジョホールバルの歓喜へ

黎明期の監督には、日本サッカー界の発展に尽力し、後にサッカー協会会長を務めた、長沼健岡野俊一郎川淵三郎などの名があります。

また森孝慈監督の時にはアジア最終予選、韓国に勝てば悲願のW杯初出場でしたが、惜しくも敗れ涙をのみました。

ドーハの悲劇

1993年カタールのドーハで行われたアジア最終予選の最終戦、勝てばW杯出場決定となる対イラク戦。

リードしていた日本ですが、タイムアップ寸前ロスタイムに同点弾を許し、ワールドカップ初出場を逃しました。

これが今も語り継がれる日本サッカー界の大きな出来事のひとつ、「ドーハの悲劇」です。その瞬間日本中が悲しみに打ちひしがれました。

このとき指揮をふるっていたのがハンス・オフト監督です。

オフト監督はオランダ出身で、日本ではヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)やマツダSC(現サンフレッチェ広島)などでコーチ、監督経験がありました。

当時強化委員長だった川淵三郎が、日本のサッカーに精通していたオフトに白羽の矢を立てます。

オランダで直接交渉し、監督就任が決まりました。日本代表初の外国人監督の誕生です。

日本代表監督から退いたあとは、ジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズの指揮を執り、Jリーグ通算100勝も記録し日本サッカーの発展に力を尽くしました。

2013年、それまでの功績が認められ日本サッカー殿堂入り、表彰されています。

ジョホールバルの歓喜

ドーハの悲劇から4年、日本は再びワールドカップ出場のチャンスをむかえます。

アジア枠最後の切符を賭け、アジア第3代表決定戦、対イラン戦をマレーシアのジョホールバルで戦いました。

両チーム死力をつくし延長戦にもつれ込みます。最後は岡野雅行のゴールでワールドカップ初出場を決めました。

1954年の初予選から43年目での悲願達成でした。これが「ジョホールバルの歓喜」とよばれています。

このとき指揮をふるっていたのが岡田武史監督です。

大会途中、成績不振で更迭された加茂周監督のあとをコーチだった岡田氏が昇格し引き継ぎ、見事ワールドカップ出場に導きました。

また2010年のワールドカップ南アフリカ大会でも指揮をとり、本戦ベスト16の成績を残しています。

Jクラブでは、横浜Fマリノス、コンサドーレ札幌でも監督を務め好成績をあげています。

まとめ

サッカー日本代表歴代監督を紹介してきました。

フィリップ・トルシエの「フラット3」の戦術や、選手時には「神様」とよばれたジーコが指揮し、奇跡のPK戦を経て優勝を果たしたアジアカップ。

哲学的な「オシム語録」が話題になったイビチャ・オシムなど、それぞれ実績を残し、個性的で印象に残る監督たちでした。

日本チームの戦いはこれからも続いていきます。選手たちの頑張りに声援をおくり、監督たちの采配にも注目してください。

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