歴史に残る女子ランナーである彼女は、数多くの名言を世に送り出してきました。
そんな数々の名言を輝かしい経歴とともに紹介します。
女子ランナーとして高橋尚子さんの口から出てきた名言のおかげで、日本の女子マラソン界が大きく変わったのも記憶に新しいでしょう。
そこで気になるのは、高橋尚子さんのこれまでの経歴、高橋尚子さんがこれまで残してきた名言ってなにがあるのか気になりますよね。
今回は高橋尚子さんのこれまでの経歴、名言について紹介していきます。
マラソンとは
マラソンとは、陸上競技の長距離走で距離は42.195キロメートルの一般の道路を制限して走る競技です。
もともとはギリシャの伝統的なものとしてあったが、それに由来してスポーツに進化しました。
第1回近代オリンピックの創設に伴って、陸上の新種目にされたことから始まったそうです。
他にも数キロのマラソンのハーフマラソン(21.0975キロメートル)、クォーターマラソン(10.54875キロメートル)、
マラソンよりも長い距離のウルトラマラソンなどがあります。
42.195キロメートルの理由
マラソンの距離が42.195キロメートルと定められていますが、第8回のパリオリンピック以後までは、
大会ごとに距離が変わって競技をしていました。
約40キロメートルでそれまではマラソン競技をしていましたが、第4回ロンドンオリンピックで採用された
42.195キロメートルを参考に市街地の42キロメートルと競技場の200メートル1周弱をその時から採用することを決めています。
高橋尚子の経歴
大学は大阪学院大学に進学し、日本学生種目別選手権の1500mで優勝して全国で初タイトル獲得、
その後の関西インカレでは中距離の2種目で優勝し、女子最優秀選手賞に選出され選手として飛躍した年になりました。
800メートル、1500メートル、3000メートルの3種目で日本一を決めるインカレでも表彰台の上に上がるほどの飛躍を遂げています。
社会人
1995年リクルートに入社し、入社1年目で駅伝メンバーに選出され、1997年初の大阪国際女子マラソンに出場し、7位の記録で終わっています。
その後積水化学に転職し、1997年に世界陸上アテネ大会の女子5000メートルに出場したが、結果は13位に終わりましたが、
練習のパートナーであった鈴木博美さんが、マラソンで優勝したのを観戦していたことがきっかけで、
本格的にマラソンランナーとして挑戦していくことになりました。
1998年に初めてマラソンランナーとして出場した名古屋国際女子マラソンでは、30キロ過ぎたあたりからの猛烈な追い上げで、
その当時日本最高記録の2時間25分48秒で初優勝を果たし、同年のバンコクアジア大会でも当時アジア最高の2時間21分47秒で優勝を果たします。
2000年のシドニーオリンピックの金メダル候補として、世界中で注目される存在になりました。
オリンピック・世界での記録
2000年9月24日に行われたシドニーオリンピックで、34キロメートル過ぎた時点で、
名場面でもあるサングラスを道に投げる動作をした直後に1位だったシモン選手を抜き去り、
そのままスタジアムに入ってゴールし、日本陸上界悲願のゴールテープを切りました。
オリンピックでの金メダルは陸上界でも戦後初の64年ぶり、日本女子陸上界史上初の金メダルです。
さらに記録は16年ぶりに更新することになる2時間23分14秒の大記録を樹立し、国民栄誉賞を受賞しました。
2001年ベルリンマラソンでは女子初の2時間20分代突破の2時間19分46秒の当時の世界記録で優勝、
日本女子マラソン初の世界記録を更新した瞬間でもあり、
オリンピック金メダリストとして世界記録を更新した選手は高橋尚子さん以外女子ではいないそうです。
現在
現在の高橋尚子さんの活動は、日本陸上競技連盟理事、スポーツキャスター、マラソンの解説など幅広く陸上にも関わっています。
オンラインでランニングスクールの講師も務め、未来の陸上界の期待の星を育てているそうです。
さらに、子供たちのサイズに合わなくなったシュージを集めて、発展途上国の貧しい子供達に寄付をして、寄付した日本の子供達には、
ひまわりの種が発展途上国の子供たちから贈られるプロジェクト「スマイル・アフリカ・プロジェクト」にも参加しています。
高橋尚子の名言10選
高橋尚子さんが残した名言を紹介していきます。
- 何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。
- 辞めようと思って暗闇にいた私だけど、夢を持っていれば光が見える。それを支えてくれた人に伝えたい。
- 金メダルも世界記録もすごいと思いません。それよりも目標を達成した喜びが大きいです。
- 長い階段を一気に上がろうとすると、途中でへばってします。でも、一段ずつ確実に上がっていけば、時間はかかっても頂上まで上がることができる。
- 私はほめられると弱いので、いいぞ、いいぞって言われると、嬉しくてどんどんがんばっちゃうんです。
- 負けるのが恥ずかしいとは思っていません。
- 暗闇の中でも、夢を持つことで、ホントに1日1日を充実した時間を過ごすことができました。なので、陸上に関係なく、いま暗闇にいる人や悩んでいる人、ほんとに1日だけ目標でも3年後の目標でも何でも目標を持つことで、すごく一歩一歩1日が充実すると思います。
- 私は全ての大会において、結果がどうなろうとも、スタートラインに立った時は「やるべきことは全てやった」という気持ちでした。なぜそういう気持ちになれるのかというと、それまでの1日1日が全て、「今日は全てやり切った、もう走れない」「ありがとう。明日もまた一緒に頑張ろうと」抱き合って終わる毎日を過ごしてきたからです。
- 「あしたのジョー」のように、戦い終え、そのまま頭の中が真っ白になっていくほど走れたら本望なんです。
- 輝ける場は人それぞれ。いかに輝くかはその人次第だと思います。
①は、高校時代の恩師から贈られた一言で、高校時代に頭角を徐々に表して表していたけど、
結果がついてこなくて落ち込んでいた高橋尚子さんに向けて言った言葉です。
- ③は、オリンピックで金メダルを取ってしばらくしてからのインタビューで記者に放った一言になっています。
- ⑦は、どん底に落ちてしまっている人に向けての励ましの一言で、密着の時に言われた言葉です。
まとめ
今回は高橋尚子さんの経歴と名言について紹介していきました。
2000年のシドニーオリンピックで日本女子初めての金メダル、2001年のベルリン世界陸上では、
世界記録を更新しての優勝など多くの感動を与えてくれた偉大な選手で、多くの女性にも陸上で金メダルを取れることを証明してくれました。
そんな高橋尚子さんの名言からは、人生において目標を持つことの大切さ、諦めない気持ちの強さなどを学ぶことができます。