マラソンの歴史を紐解きます!語源や距離、闘いの記録をご紹介します!

昨今の健康志向も相まってか、いまや空前のジョギング、マラソンブームといわれています。

たしかに街中でも、朝晩問わずカラフルなウェアを身にまとったランナーの姿を目にするようになりました。

各地のマラソン大会なども、抽選で当たらないと出場できないほどの人気で、気軽に始められる身近なスポーツとなっています。

そこで今回は市民ランナーの最終目標ともいわれている「マラソン」にスポットをあて、

その歴史、語源、距離、レースでの闘いぶりなどをご紹介していきます。

「マラソン」の語源と始まり

マラソンの始まり、名称は大変古く紀元前にまで遡り、「マラトンの戦い」に由来した、ふたつの説があるといわれています。

マラトンの戦いとは、紀元前5世紀にアテナイなど古代ギリシャ都市国家群と、アケメネス朝ペルシアとの間に起きた戦いのことをいいます。
  • ひとつめの説

ギリシャ軍の兵士フィディピデスが戦果の報告のために約40㎞の距離、マラトンからアテネまでを伝令として走ったことに由来しているという説です。

その任務を終えたフィディピデスは、残念なことに力尽きて命を落としてしまいました。

そこでフィディピデスの功績を讃えるために、人々が長距離走をするようなり、それをマラソンとよぶようになったといわれています。

  • ふたつめの説

ひとつめの説で兵士フィディピデスが戦果を伝える伝令ではなく、相手を迎撃するために援軍をもとめる伝令だったという説です。

走ったのもアテネからスパルタまでの200㎞を超える距離を走り、その功績を讃えてマラソンが生まれたといわれています。

どちらの説にしても、兵士フィディピデスの命をかけた走りがあったからこそ、マラソンが生まれたのは間違いありません。

スポーツ競技としてのマラソン

マラソンが実際のスポーツ競技になったのは近代オリンピック第1回の1896年アテネ大会からです。

フランスの言語学者ブレアルが故事にちなんで、マラトンからアテネを走ることを提案したのがマラソン競技の始まりです。

また翌年には今や人気のメジャー大会になった、アメリカのボストンマラソンが創設されています。

なぜ走る距離は42.195㎞なのか

当初の走る距離は現在の42.195㎞ではなく、約40㎞の距離で行われていました。

第4回のオリンピック1906年ロンドン大会で、初めて42.195㎞の距離でマラソンが行われました。

この大会は当初42㎞の距離で予定されていました。

そこへ、イギリス女王のアレキサンドラが、自分の居城からの観戦を希望してスタート位置を宮殿庭にし、

ゴールはスタジアムの貴賓席前にと、リクエストしました。※諸説あり

その通りに設定し距離を測ったところ、42.195㎞あり、現在もおこなわれているお馴染みの距離へとつながっていきます。

その後オリンピックは何大会をはさみ、完全に今の距離に定着したのが1924年のパリオリンピックです。

ロンドン大会と同じく、スタートとゴールとなる競技場内が200m強、競技場外が40㎞と決まり、

これより先マラソンの距離は42.195㎞に定着しました。

なにかもの凄く緻密に計算された距離だとおもっていた42.195㎞ですが、女王のひと声で決まったとは驚きです。

話しは逸れますが、42.195㎞でおこなわれたロンドン大会で「ドランドの悲劇」といわれる物語があります。

マラソンイタリア代表のドランド選手が先頭で競技場に戻ってきたものの、疲労困憊でゴール目前で倒れてしまいました。

係員が助け起こしてなんとかゴールすることができ、それを見た観衆もマラソンの起源になったアテネの兵士の話しを思い出して、

大声援を送り讃えました。

しかし他の選手、チームから手助けしてのゴールは反則ではないかと抗議があり、それを受けドランド選手は失格となりました。

これが「ドランドの悲劇」といわれています。

その後にイギリスのアレキサンドラ皇后が金杯を贈り彼を讃えたと伝わっています。

日本での初のマラソンはいつ?

続いてマラソンが日本ではいつ行われたのかをみていきます。

日本初のマラソン大会

日本で最初に行われたマラソンは、1909年(明治42年)に神戸市で行われたのが最初といわれています。

「マラソン大競技」と銘打って兵庫区の湊川を埋め立てスタート地点とし、大阪市の西成大橋がゴールの、約32㎞で行われました。

参加希望者が400人を超え、身体試験で120人に絞り込み、そのメンバーで予選レースをして、最終的に20名によってレースが行われました。

これを記念して、神戸市役所前には「日本マラソン発祥の地」の記念碑が建てられています。

マラソン壮絶な闘いと金メダル

続いては日本選手の、記録や記憶に残る壮絶な闘いのレースをご紹介します。

  • 福岡国際マラソン(1979年)

翌年に控えるモスクワオリンピックの代表選考を兼ねたこのレースは当時の実力者双子の宗茂

宗猛選手と、勢いのある若手瀬古利彦選手との壮絶なデッドヒートとなりました。

前年のこの大会を宗兄弟らを退け優勝した瀬古選手。連覇してオリンピック出場を狙います。

宗兄弟は昨年の雪辱とオリンピック代表の座獲得に燃えていました。

レースはゴールのある陸上競技場までもつれ、最後は2秒差で瀬古選手が逆転優勝、2位に宗茂選手が入り、僅差の3位に弟の宗猛選手が入りました。

結果上位3人が翌年のオリンピック代表に決定しました。

しかし残念ながら翌年行われたモスクワオリンピックは政治的理由から、日本はボイコット不参加となり、

マラソンの3選手も幻のオリンピック代表となり涙しました。

日本女子マラソン2人の金メダリスト

最後は女子マラソン金メダリスト2人をご紹介します。

  • 高橋尚子

2000年シドニーオリンピックで見事金メダル。強敵ルーマニアのシモン選手との激しい闘いでした。

35㎞で一気にスパートし当時の五輪最高記録で金メダルに輝きました。

その後女子スポーツ界初の「国民栄誉賞」を受賞しています。Qちゃんの愛称で親しまれ、小出監督との微笑ましい師弟関係も話題になりました。

  • 野口みずき

2004年アテネオリンピック。野口選手は30㎞過ぎからは独走態勢だったものの、最後の競技場でケニアの選手に迫れら渾身のラストスパート。

見事逃げ切り、オリンピック発祥の地アテネで金メダルに輝きました。

前回の高橋選手に続く日本人女子連覇の偉業を達成しました。ちなみに同じ国の連覇は、女子マラソン史上初の快挙となりました。

また野口選手が2005年のベルリンマラソンで出した2時間19分12秒は、今も破られていない日本最高記録です。

まとめ

今回は、マラソンのはじまり、語源、逸話、歴史、日本選手の闘い、記録などについてご紹介しました。

オリンピックの花形競技にもなり、日本、世界でも数多くの大会が開かれている大人気の「マラソン」。

運動不足解消や、ストレス発散、気分転換にまずは軽くウオーキング、ジョギングから始めてみるのもよいかもしれません。

そして走ることに慣れてくれば少しづつ距離をのばして、ゆくゆくはマラソン42.195㎞に挑戦してみるのもいいでしょう。

皆さんのペースで、無理なく楽しく走って下さい。この記事がきっかけになり、ひとりでも多くのランナーが増えることを願っています。

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