【レジェンド】上原浩治の名言10選!上原浩治のこれまでの功績は?

上原浩治は、2019年に巨人で現役引退をする前、2013年のメジャーリーグで日本人初のリーグチャンピオンに輝いています。

日本でもメジャーでも結果を残してきた選手だからこそ、心に響く数々の名言を残してきました。

今回は上原浩治さんの残した功績や名言について紹介していきますので、最後までご覧ください。

上原浩治の人生

上原浩治(うえはら こうじ)
出身地大阪府寝屋川市
生年月日1975年4月3日生まれ
身長187センチ 体重87キログラム

出身地は大阪府の寝屋川市なんですが、生まれは鹿児島でお父さんの仕事の関係ですぐに大阪に来たそうです。

性格は根っからの負けず嫌いで、さらに人一倍にこだわりの強い選手で、その人柄の良さも認められている上原浩治投手。

全所属のレッドソックスは、ワールドシリーズのMVPに選ばれた上原浩治投手の人柄にも触れ、

「投手としても、1人の人間としても最高の男」という風にアメリカでも認められています。

学生時代

小学校の頃にお父さんが監督を務める「寝屋川アスローズ」で野球を始め、中学校になってからは野球部がなかったそうで、

同じ団地にある「明徳アスローズ」に入団し、さらに学校の陸上部にも所属しながら汗を流していました。

高校生になる前に自転車で通学できる野球の強いところを希望し、家の近くの東海大学付属仰星高等学校に通うことを決心します。

高校の1年生と2年生の頃は陸上部で培った脚力を活かして外野手で、練習でも打撃練習に専念していたが、

3年生になってからは希望の投手で連取に励んでいくが、エースの建山義紀の控えでしか出番を与えられず、

高校では夏の大阪大会でも準々決勝で敗れるなどで全くの無名選手でありました。

建山さんがプロの道に進む中、上原浩治さんは夢であった体育教師になるために大阪体育大学に進むことを決意し、

実技試験があるため努力していたが結果は不合格に終わり、それがとても悔しく1年浪人をすることを決めます。

予備校に通いながらジムトレーニングにも顔出し、家計に負担をかけないように夜勤の道路工事のアルバイトをほぼ毎日こなしていたそうです。

努力が実り無事大学に合格することができました。

ここまで全くの無名選手できていたが大学生になってようやくその才能が開花していきます。

入学年でいきなりチームの主力として優勝に貢献し、ドラフト候補にも上がっていた選手たちとも同等に投げ合い、スカウトの目に止まる存在に変わっていきました。

大学3年生の頃には日米大学野球選手権大会で大会最多タイの14奪三振を奪い、プロとして戦っていく覚悟ができた瞬間であったそうです。

大学4年間で通算5回のリーグ優勝、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回獲得しました。

プロ野球

ドラフト指名で巨人に行くのかそれともアメリカに行くのか迷っていた時に長嶋茂雄監督と面会し、巨人に行くことを決心します。

そんな巨人時代には1999年には20勝4敗でシーズンを締めくくり、2000年は怪我で途中離脱し9勝7敗と大不振に陥りました。

2001年も怪我に苦しみ防御率が自身最低の4.02の記録で幕を閉じます。

2002年は自身初の200イニング登板し、17勝5敗でチームの日本一にも貢献、さらにアフガニスタンに200万円の支援金を送る男気も見せてくれました。

2003年にも2年連続で200イニングを投げて、2004年には入団6年目で年棒3億円に到達異例の年にもなっています。

2005年はメジャーいくことを志願していたことが契約がうまくできず、キャンプにも出遅れて成績は9勝12敗でシーズンを終えました。

2006年はメモリアルイヤーにもなった第1回WBCで韓国を破り、見事優勝したシーズンで大会最多の16奪三振を記録し、

巨人では7年連続の開幕投手を務める大役も果たしてくれています。

2007年は怪我の影響で開幕8年連続の開幕投手には選ばれず、プロになって初めての二軍からのスタートとなったシーズンではあったが、

抑えの要の豊田投手が不調に陥り、抑えとして一軍に戻っていきます。

8月5日には4日連続のセーブをあげ、球団記録の月間11セーブという記録も残していますが、クライマックスシリーズで敗退します。

最終的にはリーグ32セーブ記録しました。

2008年はFAを獲得し、メジャーに挑戦することを言い、巨人での最後のシーズンではプロとして最大の絶不調に陥り、

先発で5試合4敗、防御率6.75という成績で二軍落ちを言われます。

ところが7月から行われる北京オリンピックの日本代表監督の星野監督が上原を緊急招集すること決断し、オリンピックに参加し4位に貢献しました。

2009年にはメジャー初挑戦の地であるオリオールズに2年間所属、2009年はシーズンの大半を怪我で棒に振ります。

2010年には序盤は怪我に苦しみながら先発として17試合防御率1.80の好投でしたが、監督が代わり、クローザーに転向します。

クローザーで安定した活躍ができるようになり、Koujiコールが起こるほど2011年まで活躍をしてくれました。

2011年からはレンジャーズに所属し、チームのポストシーズン進出などの貢献するが、

ポストシーズンで好調だったシーズンでの本来のチョ王氏を発揮することができず、ロースターから外れ、チームも敗戦します。

2012年は移籍の契約にもうまくいかず、不本意の成績でシーズンを過ごす形になってしまいました。

2013年にはレッドソックスに加入し、そこで怪我の影響の出にくいクローザーに転向し、チームの6年ぶりの地区優勝に貢献し、

リーグチャンピオンシップでも圧倒的な強さで勝ち進み、ワールドシリーズで優勝しちゃうすごいシーズンになりました。

2014年は2年連続60試合に登板し、2015年と2016年も安定した活躍で貢献します。

2016年と2017年はカブスに所属するも目立った活躍を見せることはできず2018年に巨人復帰を果たし、2019年に現役を引退することを発表しました。

上原浩治の功績

上原浩治さんの功績は日本でもアメリカでも数多く残してくれています。

デビュー年の1999年には歴代4位タイの15連勝を挙げ、新人投手として4年ぶりの新人賞を獲得し、

最多勝利勝、最優優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の4冠を達成し、史上10人目、新人としては3人目の受賞を果たしました。

さらに新人賞、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、沢村賞を獲得します。

2000年はチームは4連勝で日本一になりました。

2002年には怪我から見事復活し、チームの日本一、最多勝、最高勝率、沢村賞、ベストナインを獲得します。

2003年も最多奪三振賞とゴールデングラブ賞を獲得、2004年には最優秀防御率を獲得しました。

2006年には第1回WBCに参加し、優勝しています。

2007年抑えとして32セーブを記録し、史上2人目の20勝30セーブを記録しました。

2008年はコンディションが悪いながら北京オリンピックに強行出場し、4位に貢献します。

2010年ではオリオールズでメジャーリーグ歴代4位の32試合連続無死球を記録し、さらに記録を伸ばし2011年で36試合まで伸ばし歴代3位に入りました。

2013年日米通算50セーブ、日本人最長26試合連続無失点、34人連続アウト、球団史上初のシーズン100奪三振、

連続アウトは37人これはメジャーでも歴代10位にランクインし、さらに連続無失点試合を27試合、連続無失点イニング30回3分の1で達成しました。

さらにワールドシリーズ優勝という日本投手として初の快挙も達成したすごいシーズンです。

上原浩治の名言10選

苦労人の上原浩治さんは数々の名言を残しているのですが、その中から10選しました。

  1. やっぱ野球がやりたい
  2. 僕の野球人としての武器は、自軍を曲げなかったことですね。
  3. 浪人時代という挫折があったから、今のぼくがあるのです、あれが自分の原点です。
  4. 練習は裏切らない。結局は努力したやつが勝つと思っている。
  5. 私は生まれついての強者ではない。雑草であると自認しているし、雑草であることにプライドを持っている。
  6. 大事なものは挑戦すること。挑戦し、たとえ失敗しても悔いる必要はない。
  7. 自分に勇気を与えるのが闘志力。闘志力という上原さんの本でも掲載されています。
  8. 人って結局は褒められて伸びるものなんだと思います。褒められると素直に嬉しいし、やっていてよかったと思える。
  9. たかが2、3年ね。15勝したって、それをぼくはエースとは思わない。
  10. どんな時でも絶対に諦めないで、立ちはだかる壁と格闘し続けなければいけないと心に決めている。

数々の功績と学生の頃の苦労を見ていると名言には感極まるものがありますね。

まとめ

今回上原浩治さんの過去や功績、名言について紹介しました。

学生の頃は誰にも見向きもされない無名選手でしたが、その精神力と努力で巨人に1位指名で入団し、

新人賞や沢村賞、ワールドシリーズ優勝という野球をしている人が欲しいタイトルを全て勝ち取った男の名言も心にくるものがあります。

上原浩治さんが雑草魂の鏡でもありますね。

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